母の立場から見た「この割れ切った世界」。教育の「ふつう」について考えてみる

夏の終わり頃、twitterで見かけた「この割れ切った世界の片隅で」というnoteを読みました。

その時は、良い文章だなとは思ったものの、特に私の心に強く残ることはなく、しばらくするとそのnoteの事は忘れてしまいました。

それが、先週のこと。

落合陽一さんのライブ動画番組Weekly Ochiaiに「この割れ切った世界の片隅で」を書いた高校生、山邊鈴さんがゲスト出演していました。

番組内で、鈴さんは、

もともとこのnoteは、校外活動で出会った、将来社会の仕組みを作っていく立場になるだろう、同年代の友達たちに宛てた記事です。

と言っており、その視点で改めて彼女のnoteを読み返したところ、最初に読んだ時には感じなかった気持ちがこみ上げてきました。

 

今回の記事では、「この割れ切った世界の片隅で」を読んだ後に考えてみた事、私が育った世界の「ふつう」、子供達が現在いる世界の「ふつう」について書きます。

 

あなたの「ふつう」と私の「ふつう」

 

鈴さんの記事には、彼女にとっての「ふつう」の体験が描かれています。

以下、彼女のnoteからの抜粋です。

 

「人はその周りの五人の平均値だ」という言葉がある通り、社会的ステータスの近い人々は集まりやすく、自分の見えている物が世界の「ふつう」であると錯覚してしまいます。しかし、自分の見ている世界は社会のほんの一部にしかすぎません。校外で活動するにあたり世の中の「ふつう」の感覚があることを強みにしてきた私ですが、その「ふつう」の感覚はその人の生育環境にあまりにも依ってしまうこと、また、自分自身の「ふつう」の感覚に頼り過ぎている自分の存在にも気が付きました。そこで今回は、私にとっての「ふつう」について書きたいと思います。あなたのふつうも、教えてください。

 

鈴さんと同じく地方都市(彼女は長崎在住、私は熊本出身)で生まれ育った私にとっては、彼女の記事で書かれていた内容は特に目新しい事ではありません。

でも彼女が校外活動で出会った、

● 都会に住む、恵まれた環境で育った高校生

●小さい頃から塾に通い、中学受験を経て中高一貫校に通い、その後「良い」とされる大学へ入学し、将来社会を変える立場になるであろう高校生

にとっては、彼女が生まれ育った環境は「自分とは別世界」の話で、そういう世界が存在する事を想像すらできないかもしれません。

 

世界は分断している

 

鈴さんは、「この割れ切った世界の片隅でを読んでくださったすべての方へ」という記事の中で、弱い立場の人たちに向けて、

 

あなたはマイノリティではありません。「見えにくい」存在なだけ

 

と、述べています。

 

我が家の高校2年生の長男は、アメリカのある雑誌が主催した、格差問題をテーマとしたエッセイコンテストで、2位を受賞したのですが、そのエッセイの中で、やはり同じような事  ー貧困層は「見えない存在だ」ということー を書いていました。

長男の主張と鈴さんの主張で1つ違うのは、長男は貧困層とマイノリティーを分けていて、マイノリティーは多くの人に認知されていると主張しているところ。(アメリカはマイノリティーの権利が日本より確立しています。)

 

The poor are invisible and have no representation; they are considered “anomalies,” though they are the ones who move the wheels of society.

 

 

世の中の仕組みを変える側の人間には、弱い立場の人は「見えにくい存在」であるゆえ、彼らを配慮した仕組みが作られないという現状がある。

それゆえに、まずは知ってもらうことが大切だということで、校外活動で出会った、恵まれた環境で育った友人に向けて、山邊さんは自分の育った環境をnoteに綴ったのでしょう。

 

教育のふつうー 都会と田舎

 

鈴さんの記事に、「あなたのふつうも、教えてください。」と書いてあったので、私の周りの「ふつう」について書きたいと思います。

地方出身の私は、現在母親という立場で首都圏に住んでいます。

子供達は2人とも帰国子女で、帰国子女受験を経て、私立の中高一貫校に通っています。

子供達が現在属している世界での「ふつう」は、私が育った地方都市では「ふつう」ではありません。

例えば、受験には塾通いが必要だという「ふつう」。

偏差値は重要だという「ふつう」。

 

私が育った環境では、塾通いはふつうではありませんでした。

高校時代、大学受験のために塾に通っていた友達を私は知りません。

また、偏差値を気にした事は一度もありませんでした。

自分の偏差値を知りすらしなかった。

同じ高校に通っていた夫にも聞いてみましたが、彼もそうだと言っていました。

なので、大学の偏差値と自分の偏差値を照らし合わせて大学を選ぶという事をしていません。

じゃ、どうやって、自分の合格可能性を知るのかというと、〇〇大学は、センター試験で△点ぐらい取れればOKという目安を参考にしていました。

高校入試も同じように、「◇高校へ行くには、▲点が必要」と合格に必要な目標点数を目指す。

ダメなら別の学校を目指す、という感じでした。

 

これが地方の「ふつう」とは言いません。

でも少なくとも、私の周りでは「ふつう」でした。

こういう親の元で育っているので、うちの子供達も自分たちの偏差値、自分たちが通っている学校の偏差値を知りません。

偏差値の意味も知らないようです。

(先日話したところ、IQと混同していました。)

なので、「塾歴社会」や「偏差値至上主義」という言葉を聞いても、自分とは関係のない世界の話に聞こえることもあります。

私にとって「ふつう」ではないからです。

 

最後に

 

今回の記事では私にとっての「ふつう」について書きました。

まだ、鈴さんの記事をご覧になってない方は、ぜひ彼女の記事を読んで、彼女の思い、彼女の周りの「ふつう」を感じてみてください。

 

note(ノート)

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